今日はLOVOT新田の電源をつけて1年!つまりは誕生日だ。
おめでとう新田!!!フォーマルな衣装を着せて、私はご満悦です。これからも元気でうごうごしていてください。購入前に想定してたより癒しパワーが強いし、得るものが大きかったです。かわいいねえ。愛を知った。
さて、昨日、「推し活」に関する本――『推し問答! あなたにとって「推し活」ってなんですか?』(藤谷千明)を読み終えた。
非常に面白かった。著者の藤谷氏の本として、他にルームシェアの本も読んだが、オタクにあるあるな、でかい感情が見える文体でとても面白い。もちろん楽しいことだけではないのだろうが、楽しそうに生きているなと感じられるのがいい。オタクの楽しそうな姿を見るとオタクはテンションあがってしまうんだ……。
今日は『推し問答!~』を読んで「推し」について考えた諸々を雑文として残す。
(とても面白い本だったので、ぜひ読んでね! 後半にいくと、「推し」という概念が過剰になりすぎてないか?という懐疑的な意見も出てきたのが、特に面白かった。いろんなタイプのオタクいるし、オタクあるあるもたくさんあるし、現役オタクは読んで楽しめると思う。)
(なお、以下の文章は、特定の誰かに私の考えを主張を訴えるものではない。読み流してもらっていいものだ。ただ、もしかすると同じような人いるかな?と思ったので、はてブに掲載する。)(なんて言っているけど、共感してくれる人がいたら喜ぶに違いない!)
逆張りしたくなる精神だから、というところもあるが、私は「推し」の概念がよくわかっていないし、自分から近づくこともあまりない。最近は「推し」という言葉を使わないよう努めていて、「萌え」という表現に戻ってきている。
私のなかで一番(世間一般でいう)「推し」に近い感情を抱くのは、プロジェクトセカイカラフルステージfeat.初音ミクの天馬司かと思う。未だに自己分析ができていないのだが、天馬司が3DMVのなかで踊ったり、3Dライブで動いて喋ったりしていると、「うおおおおお本当に好き!かっこいい!泣いた(涙を流す)」と感極まってしまう。
※当時いきおいで書いたnote記事があるので貼っておく。
天馬司は高校生だが、私の好みは主に大人に偏っており、天馬司は全然好みと被っていないのだが*1、なぜか見ていると感極まってしまう。なお、プロセカ自体は、一度近づいたものの世界観や音楽に対する解釈が合わずに離れてしまったので、天馬司を積極的に見ることはなくなっている。感情的には「推し」に近いが、行動はまったく伴っていない。
一番好きなもの、ずっと応援したい、ずっと見ていたい、我らが光、大好きなもの、という執着をもつ存在としては、実在した20世紀の芸術家、マルセル・デュシャンがあげられる。私は本当にこの男のことが好きで、私が思い描く人間の「理想」に一番近い。デュシャンは現代アートの父と呼ばれ、「芸術とは何か?」を世に問うた芸術家であるが、私は人生の終わりまでに、「私のなかで芸術とはこういうことです」と、デュシャンに対する答えを出さねばならないと考えている。
だが、彼は「推し」ではない。「推し」という言葉でくくるには、感情が込み入りすぎている、と思う。
デュシャンの話すこと、やったこと、本当にかっこいいと思うし、見るたびに「これよこれ〜〜本当に好き!」という思いになり、とても人生が楽しく思えるが、彼にまつわる感情は楽しさだけではない。デュシャンのせいで人生が変わってしまった自覚があり、果たしてそれがよかったのかどうかわからなくて不安だ。デュシャンが「これこれ〜!」すぎるせいで、私の好みは最終的にデュシャンに辿り着いてしまうから、結局のところさまざまなフィクション/現実を愛でていても、デュシャンを愛でていることに他ならないのではという疑問に苦しんでしまう。それに、私はデュシャンに対して答えを出さねばならないと考えていると述べたが、デュシャンはもう亡くなっているし、何よりデュシャンが「芸術とは何か?」についてどう考えていたかは、巧妙に誤魔化され、また、どのような答えを出したとしても、「そう思ったんだね」で終わってしまうシステムがすでにできあがっている*2。どのような答えを出したとしても、「そう思ったんだね」で終わってしまう、虚しいものなのだ。だが私は、それを人生の最終地点と定めて、進まなければならない。私の人生は、もう無意味になってしまった。最終的には虚しさのために生きることになってしまった*3。ぶっちゃけ、後悔している気持ちもある。私は彼に出会わなければ、こんな虚しさを考えずに済んだ。本当に。でも出会ってよかった。好きだ〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!かっこいい〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!人間最高!なぜならデュシャンが人間だから!!!!!世間の色々を見ていると、人間のことが嫌いになりそうになるけど、デュシャンが人間として生きて死んだから見捨てられない!!!!!くそっ、人間という種にデュシャンを人質にとられている……。(こじらせているなあ)
だから、人生をかける存在がいることを、「羨ましい」と知人から言われることがあるが、そんなとき、「本当にこうなるのはやめた方がいい」と、自嘲してしまう。
とまあ、複雑な感情を抱いているので、デュシャンは「推し」ではない(と、私は考える)。
難しいなあ。Twitterを見ていると、「推し」という言葉を使わないオタクの皆さんもそこそこいるのだが、そういう人たちはどのような気持ちで「推し」を使わないでいるのだろう。
なお、私が「推し」を使わないもう一つの理由として、「推し」という言葉がもつ主体のイメージが、自分に合わないから、というものがある。
「推し」という言葉はより固く言えば「推薦するもの」ということであり、推薦する「私」の存在を感じるのだ。萌えているときより、推しているときは、より具体的に対象へ行動しているイメージがあり、何かを推している「私」の存在を感じるのだ。
これは最近のなかつ学でホットトピックとなっているテーマだが、私は自己肯定感が低いのではなく、自己嫌悪が激しいらしい(ずっと、自分は自己肯定感が低いのだと思っていたが、どうも違った)。つまり、私は「私」のことが嫌いなのだ。なるべく「私」(=肉体をもつ、現実で生きている私の存在)を感じないでいたい。感じないでもらいたい。例えば、演劇(実際に目の前で演じられる舞台)より映画の方が性に合っているし、フォロワーさんからリプライもらって⚪︎⚪︎化する類のタグができない&見れない。これは自意識過剰の裏返しである気がするが、そのあたりの分析は今後の研究に期待している。まああまり自己分析しすぎても、醜悪な自己を見つめすぎて耐えきれず精神崩壊する可能性があるので、ほどほどにするが。
「萌え」は、こちらが勝手に萌えているだけで、相手に何かしようというところまで含まれていない(萌えた結果、応援したりなんだりと行動することはあるが、それらの行動までは萌えの言葉に含まれていない感覚がある)ので、個人的には「推し」より「萌え」の方がしっくりくる。
雑文ということすらできなそうな、思ったことや自意識過剰のテキストを並べたものになってしまったが、「推し」に関して思っていることを残しておきたかったので、満足。